館長からのメッセージ

復興日記より

被災以来、桜前線も北上し、ここ福島県いわき市の阿武隈の山並みも桜色に染まりつつあります。復興に向けて関係者による準備会議を立ち上げました。全組織を復興事業本部の下に配置しました。そして、組織をあげて復興に取り組みやすい体制にしました。ライフラインの復活まで、職員を自宅待機としました。そして、会合のために東京の上野の事務所を設けました。設計者はじめ設備専門家等からなる担当者会議を立ち上げました。

けなげな桜花 けなげな桜花

以下は当時の記録です。

■復興のシナリオ(夢)をえがく

午後2時46分、あの日以来、傷だらけのアクアマリンふくしまの壊れた循環系の再生準備に取り組んだ。津波のヘドロと奮闘した。

汚泥と悪戦苦闘するスタッフ。堆積した汚泥は10cm以上にも及ぶ。 汚泥と悪戦苦闘するスタッフ。堆積した汚泥は10cm以上にも及ぶ。

60日の時間が流れたが、まだ私たちの体内時計は止まっているかのようだ。あと60日で、新アクアマリンふくしまを仕上げる仕事が待っている。復興のシナリオは、次のようなものだった。

① 港オアシスのシンボルとして、水族館をとりまく外構に松を植えた防潮堤をつくる。
② 水族館のゲートから本館へのアプローチに、キッズの「わくわく里山」を造成する。
③ 被災した保全センターをシーラカンス保全センターとして再生する。
④ うおのぞき子ども漁業博物館を「よみがえれ、私たちの海」の発信基地にする。

これらのシナリオを達成するためには、厳密な工程管理、進行管理が必要だ。 みんなでアクアマリンの誕生を2度楽しもうではないか。

(5月11日)

■「がんばっぺ」から「よみがえれ」へ

小名浜まちづくり市民会議の総会では、この災害のために、現執行部の2年続投が決まった。しかし肝心の復興計画についての議論はほとんど無かった。課題が過剰ではじめから議論をあきらめているのではないかと思った。恒例の8月第一土曜日の30万人を集める花火大会の話題もなかった。渡辺敬夫市長や市の幹部が顔をそろえていたが、みな議論をする元気さえないようにみえた。アクアマリンふくしまの私に発言の機会が与えられた。
「外部からの頑張れの応援はありがたいが、被災地としては、頑張れを励みにして地域をなんとかして『よみがえらせる』段階ではないか」と述べた。

よみがえれ!私たちの海 よみがえれ!私たちの海

持参した「よみがえれ私たちの海」のステッカーはあっという間に無くなった。折しも、アクアマリンのゲート脇に「よみがえれ、私たちの海」の大看板が立ち上がった。6月中旬にインフラ整備のめどがつき、それから1ヵ月の勝負になると思った。

(5月29日)

■災害が組織人を育てる

人はヒト、ゴリラ、チンプ、オラン、テナガザル、5グループの類人猿の一種だ。社会生活を営む。残念ながら、人類は類人猿のうち最も性格の悪いチンパンジーが祖先である。 こうした激甚な自然災害に遭遇すると、社会にも人間の仮面をかぶったチンパンジーの実像が顕れる。国会がその典型のように思われる。

 4月25日全職員を招集した。 

この日から昼食を栄養豊かな炊き出しを始めた。相撲取りのちゃんこ鍋の伝統を守る山本大シェフ(東京の上野からスカウト)が腕を振るった。組織に一体感が生まれた。下水道は損傷が大きかったために、戸外に仮設便所を設けた。ちょっと臭いが、仮設便所は人のコミュニケーションの場ともなった。これも組織に一体感をもたらせた。被災を境に職員のオフィスレイアウトも変更し、不規則な勤務態勢に適合したものをめざした。

炊き出し風景。支援に来てくれた有志による炊き出しもあった。 炊き出し風景。支援に来てくれた有志による炊き出しもあった。

アクアマリンは再開をめざしているが、それは3月11日以前の姿ではない。取り組む職員がすでに鍛えられた組織人になっているからだ。あらたな仕掛け(布石)を打った。 新しいアクアマリンが別な姿に「よみがえる」ことを念じつつ。

(6月3日)