館長からのメッセージ

森が死ねば 海が死ぬ

いわきの老漁師は杯を傾けながらつぶやいた。
「魚をとりすぎたわけではない。だんだん魚がいなくなった。それは今となればダムや河川工事、沿岸の土木工事のせいだ」。 ダムや堰堤が土砂を堰き止め、海岸に砂を補給しなくなった。護岸工事のたびに砂が動き磯を埋める。つまり稚魚が育つ場が無くなることになる。
国の海岸法の改正を受けて、福島県が今後10年の基本計画をまとめたのが、2004年のことだった。海岸防護一辺倒から環境・利用の概念を付け加えたのはよいが、守備範囲には河口も松川浦も入っていない。河川や干潟、森は違う法律があるので別々に議論しているのだ。山・川・海、水源から河口、沿岸まで過剰な治山治水・海岸防護の土木工事が、生物多様性を損なってきたことは明らかである。異業種の徹底的議論と技術革新が必要であろう。

「山」
 万人を苦しめる花粉症は、林野行政の失政が原因の一端であるように思える。貿易黒字を補助金に注ぎ込んできた結果、逆に産業の衰退をまねいたのが現状ではないか。日本の木材自給率は20%といわれている。住宅メーカーが国産材を利用しない理由は、コスト面よりも森林所有者の都合で伐採するから、一定品質の木材が安定的に供給できないことにあると言われている。また、補助金漬けの森林組合に市場原理が働かないから自立できないということもあるようだ。今や、森林面積の40%を超える人工林の半分近くがスギ、ヒノキになっている。この数字は全水田面積より広い。実はこれこそが林産業を支える人々を「絶滅危惧種」に追いやり、保水力の弱い森林砂漠をつくってしまったのだ。杉林を流れる渓流には生物の姿はみられない。復元力の強い日本の自然に望みをつなぐしかないのだろうか。間伐の代わりに樹皮を剥いで立ち枯らす作戦は、花粉症に朗報と言えよう。

「川」
 脱ダム宣言で失職した田中康夫長野県知事は、小説家でありしたたかな政治家である。創作力では県議の古株政治家では太刀打ちできない。脱ダムは正論だ。大陸の川に比べれば日本の川は滝のようだと言われる。洪水緩和、利水、治水などいろいろな目的でダムを造ってきた。小さな枝沢にまで砂防ダムを造り続けた。すぐに砂に埋まって雛壇のようになってしまい、渓流魚が回遊できなくなった。一方、流れ来る砂の不足で、沿岸の砂浜はやせ細っている。水田は水路をまっすぐにしたため遊水池の機能が弱まってしまった。米の増産策の後は減反政策と、矛盾をはらんだこれらの失政は「水に流す」訳にはいかない。どうすればよいのか。ムダなダムを壊す逆開発の思想が必要である。逆開発を地域の公共事業の中心に据えれば地域も活性をとりもどすことだろう。

「最終章」
 福島の160㎞の海岸線はお世辞にも美しいとはいえない。海崖地帯以外ほとんどが人工海岸なのだ。海岸線は直線的であるから浸食をもろにうける事情は分かるものの、浸食を防ぐ対症療法でテトラポッドを投入し続けた結果、全海岸線をコンクリート防護にしなければ帳尻が合わなくなったのである。かつては黒松の防風林帯が砂を保持し浸食を防いでいたのに、源流のダムや枝沢の砂防ダムによって河川が運ぶ砂が減少した。沿岸は海洋生物の再生産の場である。森が死ねば海が死ぬ。森と川が死にかかっているのだ。これは現場の漁師や山男が、最も実感していることだろう。海岸法に海岸防護一辺倒から環境や利用の項目が付け加わったことは朗報だ。そろそろ土建国家を返上しないと国土が崩壊してしまう。
そんなことをいっても未来予測不可能ではないかという弁明も聞かれる。たしかに多数決の世界では少数の意見を選択をしてこなかった。少数意見の尊重と情報の質が問われる時代である。

見晴るかすテトラポット。どこまでも直線のコンクリート護岸。 見晴るかすテトラポット。どこまでも直線のコンクリート護岸。

アクアマリンふくしま 館長 安部義孝