館長からのメッセージ

小名浜漁港うおのぞき由来

小名浜漁業協同組合の玄関口に3トンの二つの水槽からなる観魚室「うおのぞき」が出現した。

うおのぞき うおのぞき

一つにメバルの仲間やウマヅラハギなど地魚を収容した。もう一つには「シーラカンスのライバル?」の看板を付けて、1メートルを超え30㎏級の大ハタ、タマカイとカスリハタを収容した。地魚の水槽には、漁師さんが珍しい種類が採れたとき昼夜をわかたず放り込んでもらう。 一石二鳥という諺があるが、地元の魚の水槽一つで珍魚と地元の魚を獲るという一石二魚の作戦をもくろんでいる。

筆者は、過去の栄光を物語る小名浜漁業組合の壮大な建物を見るにつけ、斜陽水産についてアクアマリンふくしまとして何ができるかを常々考えてきた。そのために、小水族館・アクアミニでもつくろうと思った。小水族館の設置について、漁協や施設の管理者であるいわき市水産振興室などとの折衝を重ねた。おりしも、小名浜市場祭りが3月8日に予定されていることを知った。市場祭り前日の3月7日、アクアマリンふくしまでは研究者と生産者と消費者との間で水産のありかたを考える第四回メヒカリサミットを開催することにしていた。

小名浜漁港風景 小名浜漁港風景

小水族館の命名には、縄のれんでの熟考時間が必要だった。水族館の歴史の黎明期にさかのぼって、ついに観魚室(うおのぞき)の名前にたどり着いた。「うおのぞき」の由来は、明治15年上野動物園に誕生した日本初の水族館の歴史にさかのぼる。この名称の使用については、現上野動物園の小宮輝之園長の快諾を得ている。明治時代の当時、水族館という漢字が無かったために、観魚室と書いて「うのぞき」と読ませたという。15ばかりの水槽をそなえた立派な水族館だった。

 大正時代になると、上野動物園内に「水族室」というのが現れた。やがて、民間水族館のはしりとして浅草水族館が誕生した。今日、中国でも使う「水族館」は日本国産の漢字に起源がある。 世界の本格的水族館のはじまりは、英国人のロイド(1860年)が開発した循環装付きの水族館とされている。ロイドは、大容量の貯水槽から小型の飼育水槽へ水を循環すると、安定的に水生生物が飼育できることを証明した。大容量の貯水槽が水質浄化に貢献したようだ。

20世紀に入ると、わが国にも動物園から独立した水族館が現れた。多くが国立大学の臨海実験所付属水族館だった。沿岸水を取水し懸け流しにする開放循環の水族館であった。 海水の閉鎖循環型の水族館といえば、やはり上野動物園西園にあった旧上野動物園海水水族館(1952―1964)だ。この海水水族館は、ロイド式の循環方式を採用しており、簡単な濾過槽を経て、ポンプで循環していた。筆者が1964年に上野動物園に就職して最初の職場はこの旧海水水族館だった。わが国では,この旧海水水族館や旧神戸市立須磨水族館などを舞台に、飼育水の定量的な水質研究が行われ、濾過理論が確立した。それが、今日の水族館隆盛の基になった。

さて、うおのぞきの物語が長くなった。 3月7日には漁協の組合長といわき市の水産振興室長と共に「うおのぞき」開館のテープカットをした。翌、日曜日の魚市場祭りには、古い観魚室・うおのぞきの名前のとおり子ども達が水槽窓にへばりついた。市場祭りは、浜通りの多くの魚屋さんの出店で大にぎわいになった。 漁協女性部による、たこ飯とカニ汁のふるまいには行列ができた。サンマを小さな袋に詰め込むサンマのつかみ取り、サンマを上手に食べるコンテストなどのイベントも楽しかった。

サンマ食べ方コンテスト サンマ食べ方コンテスト

この壮大な小名浜魚市場の施設をあずかる「いわき市水産振興室」とともに、アクアマリンふくしまは、いわきの水産振興にどんなお手伝いができるだろうか。市場祭りと魚のぞきの開館をその契機としたい。 まずは、毎年第一土曜日にメヒカリサミットを開催し翌日の日曜日を小名浜市場祭りとすることを提案したい。