館長からのメッセージ

銃眼のエフィラ

先日、新江ノ島水族館で開催された日本動物園水族館協会飼育技術者研究会(2007年2月1,2日)において、日動水加盟館のクラゲ類飼育展示実績の調査結果が発表された。アンケートに回答のあった68館中、58館でこれまでに飼育された種類数はヒドロ虫綱96種、鉢虫綱44種、箱虫綱7種、有櫛動仏門26種の計173種に及んだ。飼育種類数では、新江ノ島水族館の50余種、鶴岡市立加茂水族館45種、大阪海遊館27種、私のところ、ふくしま海洋科学館23種が突出していた。

上野動物園水族館(1964-1994)三階の小さな窓が「銃眼」 上野動物園水族館(1964-1994)三階の小さな窓が「銃眼」

筆者が奉職した上野動物園水族館は不忍池畔に上野動物園90周年を記念して建設され、昭和39年(1964)の10月に開館した。四階建ての白亜の建物には、上野動物園にあって、150に及ぶ水槽やケージによって、無脊椎動物から四階の爬虫類までを受け持つ「生きた博物館」であった。
私の担当の一つは3階の磯の生物コーナーだった。狭くて暗い楽屋裏には銃眼のようにデザイン的に設けられた30㎝角の小窓がならんでいた。そこも小さな水槽を置く場所に利用した。昭和40年(1965)の秋のある日、銃眼の小窓に見たことのない生物が泳いでいた。逆光に舞うミズクラゲのエフィラだった。ポリプが磯から運んだ岩について持ち込まれたものだ。窓際の水槽で見つけたエフィラの美しさに惹かれた。

当時、クラゲ飼育についての参考文献は多くなかった。海外では、1897年のブラウンの「水槽内でのクラゲ飼育について」を見つけた。
東北大学浅虫臨海実験場紀要(1958)には平井越郎先生の「ミズクラゲとアカクラゲの生活史について」があった。上野動物園愛好会の機関誌、「どうぶつと動物園」の1959年6月号には平井越郎教授が「マイクロアクアリウムのこころみ」と題してエダアシクラゲやミズクラゲの世代交番展示について寄稿されていた。
浅虫臨海実験所の付属水族館では、このとき、すでにクラゲの生活環の各ステージをプロジェクターによって展示していたようだ。
62年には浅虫実験所の柿沼好子さんによる「エダアシクラゲとミズクラゲの分化の要因について」が報告されていた。
上野動物園の新水族館では、教科書にもでてくるミズクラゲの生活史を常設展示できないものかと考えた。初代館長だった久田迪夫氏ともども、さっそく、東北大学浅虫臨海実験場に平井先生を訪ねた。柿沼、伊藤先生もおられ、懇切にクラゲ類飼育の指導を受けたものだ。

上野水族館開館後、楽屋裏でクラゲ類飼育の試行錯誤をくりかえした。
やっと1967年、「クラゲ工場」の生産ラインが整い、8月から水族館の3階特別コーナーでミズクラゲの生活環の周年展示するに至った。
ポリプ、ストロビラ、エフィラ、クラゲの各ステージの安定生産のポイントは、高密度飼育のポリプ水槽の環境を変化させることによってストロビラを形成させる実験室的な手法と、大型水槽による安定環境で親クラゲを育てる飼育手法を使い分けることであった。
各ステージはプロジェクターによって拡大展示、クラゲは流水式の水槽に展示した。爾来、1994年の閉館まで27年間、まがりなりにも教科書に出てくるミズクラゲの生活史展示を継続した。

クラゲにエサを与える筆者(1967) クラゲにエサを与える筆者(1967)

「どうぶつと動物園」1967年8月号に「くらげを飼う」と題して新展示を紹介した。1968年、5月札幌日動水総会にて「上野動物園水族館におけるミズクラゲの飼育と展示について」口頭発表、東北大大学浅虫臨海実験所紀要(1969/3)にも投稿した。間もなく、国内では、江ノ島水族館の志村さんと大川さんが「クラゲ工場」をのぞきにやってきた。当時の廣崎芳次江ノ島水族館長は「どうぶつと動物園1985年6月号」に「クラゲ飼育と展示」を寄稿され、江ノ島水族館は20年前からクラゲ展示に取り組んだとの記述があるから、「クラゲ工場」創業時とほぼ時間的には一致する。
海外からは、1975年には東北大学の英文紀要を読んだベルギーのアントワープ動物園水族館のバンデンサンデ氏がやってきた。アメリカからは、スクリップス海洋研究所水族館のチャールスファーウエル氏がアメリカの水族館人ツアー一行とともにやってきた。氏は1984年開館のモントレー湾水族館建設計画に携わり、初代の飼育課長を勤めた。氏を通じて上野動物園水族館との間に「クラゲ外交」があった。モントレー湾水族館は開館時に、独自に開発した円盤型のクラゲ水槽によって、クラゲ展示を目玉の一つとした。クラゲ飼育展示の輪が世界に拡がっていった。

この度、クラゲの水族館の看板を掲げた鶴岡市立加茂水族館の村上館長、奥泉副館長が、クラゲ飼育のまとめを編集するにあたり、筆者等の黎明期のクラゲ飼育についてメッセージを送って欲しいとのリクエストに応え、記憶を掘り起こした。バンデンサンデ氏にこのことを伝えると、早速メールを下さった。氏は、現在ヨーロッパ水族館キュレイターユニオンと、国際水族館フォーラムの事務局長を兼任する。
彼のメールには、「ハロー、ヨシタカ。お便り有り難う。クラゲの仕事を思い起こすと、最初に貴殿や杉浦(当時の上野水族館飼育係長)さん、中川さん(上野動物園長)に上野動物園水族館でお会いしたのは、1975年5月29日のことだった。それから6月2,3日までクラゲ繁殖の実習をした。プラスチップ容器にポリプとエフィラを入れて6月4日JALでアントワープに直行したものだ。そして、ヨーロッパで初めてミズクラゲの生活環の実験を行い、常設展示するに至ったのだ。今では実に大昔のことだが、長年にわたり、ヨシタカと交友をもち、友情を享受することは大変喜ばしい」とあった。

モントレー湾水族館とは、私が建設計画に携わった葛西臨海水族館開館の年1989年に友好提携した。アクアマリンふくしまも2000年開館の年に提携した。クラゲのとりもつ関係である。
モントレー湾水族館は2002年4月、クラゲ展示を大リニューアルし、「ジェリー・リビングアート」と銘打って、クラゲとアートを組み合わせた展示を展開した。翌2003年10月、アクアマリンふくしまを会場に開催した小名浜国際環境芸術祭では、モントレー湾水族館の企画部長ダン・ヒューズ氏を基調講演に招いた。モントレーの「ジェリー・リビングアート」は、ガラスのアートとクラゲ展示一体化したもので、利用者アンケートによると生きたクラゲのサイエンスよりは、クラゲとガラスの工芸作品が渾然一体となったアート示が70%の観覧者によって支持されたと報告した。この展示は全米博物館協会賞を受賞した。「生きた博物館」としての水族館は、「生きた芸術」展示によって、「環境芸術」にまで高められ、それは、「銃眼のエフィラ」から始まったのである。