館長からのメッセージ

命の教育

珍しい動物を間近に見たいという人々の願望から生まれた動物園や水族館は、時代とともにその役割を変えてきた。

環境教育、希少種の保存、人々の心の癒しの場が現代的役割である。親の子殺しなどの人の倫理の根底をくつがえすような事件が頻発すると、従来の役割だけでは対応できない。児童虐待防止、子育支援など人間社会の安全保障にかかわる課題に、動物園や水族館が積極的な役割を果たすべき時代になったのではないか。真に環境に優しい次世代を育成するために、新しい役割の付加が必要である。それは、動物の死をも体験する「命の教育」の機会を子どもたちに保証することであろう。

最近、ラジオで哲学者、梅原猛氏が、人の倫理の根底は何か、という重いテーマで語っていた。チンパンジーの母親が死んだ我が子がミイラになるまで持ち歩くエピソードをまじえて、それは親子の愛情、特に親の子に対する無条件の愛情であると述べていた。

過剰な都市化が自然嫌いの子どもさえ生み出していると警鐘が鳴らされていたにもかかわらず、子どもたちから自然に接する機会を奪ってきた。頻発する異常事件はこのことと無関係ではなさそうだ。それは、私たち大人の責任である。

わが国ではじめて子ども動物園を開設したのは、上野動物園であった。はじめは人工保育した野生動物の子どもの「孤児」園だったが、やがてヤギ、ウシ、ニワトリなどの家畜や家禽が加わり、人の子どもの体験の場になった。水族館でもヒトデやウニ、ナマコなどの磯の生物を触らせる猫の額のような人工磯、タッチプールをつくった。これらは全国に普及し、幼児期の体験学習に一定の役割を担ってきた。しかし、多くは「ぬくもり」や「かわいい」の情操教育の域を抜け出せないでいる。

私は少年期、米沢盆地の叔父の家で夏休みいっぱい過ごしたものだ。叔父は庭で遊んでいる鶏を捕まえて殺すことを子どもたちに命じた。祖父は、飼い猫がお産をすると、子どもたちを前に、仔猫の目が開かないうちに一頭を残して庭石に頭をぶつけて殺して見せた。捨て猫にする方がもっとかわいそうだと教えられた。

稲田の曲がりくねった小川は雑魚釣りのポイントだった。フナやナマズの竹串が囲炉裏の周りに並ぶと祖父や叔父にほめられたものだ。里地里山は「命の教育」の舞台だった。

アクアマリンふくしまはさきごろ、敷地内に里地のビオトープをつくった。ビオトープとは生命の盃。ビオとカエルの鳴き声を結びつけ「ビオビオビオ・河童の里」と名づけた。河童とは架空の動物、川で遊ぶ子どもたちである。先日、保育園児による一月遅れの田植えを行った。秋には古代米が実るはずだ。

館の教育普及活動の柱を「持続可能な利用」と定めている。「よみがえる鯨文化」や「海を食べる」の企画は、鯨汁、カツオの漬け、サンマ塩焼き、かに汁など海の幸の味覚体験のイベントを連ねた。恒例の「親子釣りスクール」は、お父さんの狩猟本能を呼び覚ます意図がある。黒潮の水槽では時にサメがカツオを襲い、カツオがイワシ群を襲う。自然界の食物連鎖をかいま見ることが出来る。

アクアマリンは「命の教育」活動を質量ともに充実させ、人間社会の安全装置としての責務を果たしていく。