館長からのメッセージ

偉大なるガキ大将・博物学者 清水大典の世界 冬虫夏草展の開催にあたって

偉大なるガキ大将・博物学者 清水大典の世界

1)偉大なるガキ大将とのであい

清水大典さんは、1915年生まれ、秩父の名家のご出身で、戦争の困難な時代にほとんど独学で植物学を学び、日本植物学の権威、牧野富太郎に師事した。東京大学の小石川植物園に奉職し、1947年から郷土の秩父にもどられ、1951年まで秩父市郊外の禅寺、臨済宗金仙寺の森のシイタケ試験場で研究生活をしておられた。

私は、教職の父の赴任によって、もの心つくころから11歳まで、このお寺の境内で朝な夕なにお経を聞きながら育った。清水さんご一家にも同年代の菊子さんと信六さんがいたので家族ぐるみのおつきあいだった。

すばらしい自然環境だった。51年、清水さんご一家が宮崎県の服部植物研究所に転出された。同時期に、私の一家も東京へ転居したが、この間、博物学者の清水さんは私にとって「偉大なるガキ大将」だった。

清水さんの試験場には、東京の大学や博物館から植物を学ぶ学生や、特に生きた昆虫に寄生する冬虫夏草などの菌類の研究者たちがやってきた。清水さんは登山家でもあり、フィールドワークを重視された。一行を率いて武甲山麓や、荒川を越えて別所山などへ菌類採集にでかけた。私も許され仲間に入れていただいた。

清水大典の細密画 清水大典の細密画

清水さんは、卓越した観察眼で、沢筋の湿気のある落ち葉の間に隠れる冬虫夏草を見つけ出した。先生にならって、じっとにらめっこをしていると冬虫夏草の姿が見えてくる。私が発見すると、先生は学生たちに向かって「ほら君たち、ヨッチャンのほうが良く見つけるじゃないか、君たちこれが見えないのかね」と、研究者の節穴の眼をなじってみせた。清水さんは、偉大なるガキ大将に見えた。沢筋にはときにマムシも現れた。清水さんは素早くマムシの首根っこを押さえ、用意した布袋に入れた。試験場に戻ると、ヘビの口先からするりと皮を剥いだ。生肝は先生がおもむろに飲み込む。身はたき火であぶって食べたものだ。ガキ大将、清水さんの独壇場だった。

清水大典

清水大典 Shimizu Daisuke
(1915~1998)埼玉県秩父市に生まれる。旧制秩父農林学校を卒業後、ほとんど独学で動植物、菌類、昆虫、岩石などの広範囲な博学を修得した。 東京帝国大学理学部附属小石川植物園などに務めた後、1940年に満洲(中国東北部)の大陸科学院(当時)植物研究室に移った。 終戦後帰国し、小石川植物園に復帰し、その後、山形県米沢市立博物館、米沢市立白布温泉熱帯植物園園長となり、定年まで務めた。 1981年に日本冬虫夏草の会を設立して会長となり、冬虫夏草の研究と後進の指導に努めた。

2)偉大なるガキ大将に学ぶ

もう一つの先生の姿は、研究室で標本の細密画に取り組む姿だった。博物学では正確な図を描くことが基本だ。微小な冬虫夏草をルーペで観察しつつ、細筆に日本画や水彩画の絵の具を使い分け、すばらしい図に仕立てていた。磨かれた観察眼は芸術の域にも達していた。図に取り組む先生は、子どもの私には近寄りがたかった。

生前使用していたルーペ 生前使用していたルーペ

自然を観察し、楽しみ、そして、きちん野帳をつける、そのことの大切さを学んだ。手伝っていただいた宿題の植物標本「草花と実や種」はできが良すぎて、小学校の先生は評価に困ったはずだ。東京に引っ越し、私の自然環境は著しく貧しくなったのでもっぱらシートン動物記やロレンツのソロモンの指輪など博物学書を読みふけった。私は博物学者になりたいと思った。清水さんは、奥様の郷土、山形県米沢市の博物館に1957年に移られ、白布高湯の植物園長も兼任され、75年まで在職された。1964年に私が、上野動物園水族館に奉職してから、時に、列車待ちの清水さんと上野駅の縄暖簾で一献傾けたこともあった。水に関しても博学だった。

このたび、企画展示「偉大なるガキ大将、博物学者清水大典の世界」を実現するにあたって、実に57年ぶりに、山形県米沢市在住のお嬢さんの清水菊子さんに再会した。少女時代の面影が残る菊子さんは、お父さんの「宝物」をこの企画展示のために快くお貸しいただいた。

また、驚いたことに、身近なところに大典ファンがおられた。日本冬虫夏草の会会員で朝日新聞いわき支局長の丸山賢治記者、伊達市梁川在住で同会事務局長の貝津好孝氏、同会員の横山茂氏、宮島康夫氏、福島市在住で同会員の宇梶清一氏、斎藤宏志氏は、この企画展示を実現するにあたって、大きな原動力になっていただいた。ここにご協力をいただいた皆様に感謝いたします。

幼年期から少年期の自然体験がいかに大切であるか、アクアマリンふくしまの「命の教育」は私の自然体験に基づいている。偉大なるガキ大将は、1998年帰らぬ人となった。この企画を通じて、清水さんの業績を振り返り、お人柄をしのぶことによって、自然愛好者の系譜を語り継ぎたい。