館長からのメッセージ

企画展示「サムライと釣りーその技と美」によせて そのⅠ―私と最上川

最上川は米沢盆地を取り巻く山岳地帯から無数の細流を集めて水田地帯を流れ松川となり、長井で飯豊山を流下する白川、朝日岳から野川、朝日川をあわせて大河となる。
友人とカヌーで秋の最上川下りを決行したのは昭和三十八年のことだった。長井から漕ぎ出した。河岸で野宿しながらの川旅だ。おりしも鮎の梁漁の名残りの杭が激流に乱立し、難所の連続だった。
庄内まで下るつもりでいたが、左沢の激流で戦意喪失し寒河江から重いカヌーをかついで汽車に乗った。

父母とも米沢盆地の出身である。学校が休みのたびに東京から遊びに行った。祖父や叔父が釣りの手ほどきをしてくれた。水田の無数の細流にたくさんの雑魚がいた。裏の肥塚でミミズを掘り、ひねもす釣り歩く。「雑魚釣りあんにゃ」のニックネームをいただいた。
受験期になると教師の叔父の一人は「この辺でも夏休み雑魚釣りしているのはいないぞ」と冷や水を掛けられたがひるまなかった。獲物は竹串に刺し囲炉裏で焼き上げる。ときに櫛が囲炉裏を一周するほど釣れた。祖父らに誉められるのが嬉しかった。
米坂線をまだ汽車が走っていたころである。

鶴岡市立郷土資料館所蔵「釣り絵図」より 鶴岡市立郷土資料館所蔵「釣り絵図」より(部分)。腰の二本差しから武士であることがうかがえる。

 

米沢盆地の水田地帯の釣りは蛋白源の確保の大切な手段でもあったが、今思うとそれだけでなく庄内の釣り道精神が上流までおよんでいたのであろう。
庄内の鶴岡は十四万石の藩主酒井候の所領であった。酒井候は釣りを武芸の一つとして奨励した。
藩公も自ら釣りをしたため藩士の間に釣りが盛んとなった。その日の勝負(釣果)は藩士の面目にかかわることであった。
武士は刀にも相当する竿を自製した。庄内竿と称される名竿は、全部藩士の手になったものである。

庄内竿は、この地方特産の苦竹という肉厚の竹を使う。晩秋から冬に切り出す。根をふくめて掘り出すのは庄内竿の見所の一つである根を使うためである。火にあてまず根を矯め、伸ばしが終わると煤棚にあげて乾燥し四、五年かけて完成させるのだ。

財団法人致道博物館所蔵「庄内竿」 財団法人致道博物館所蔵「庄内竿」。根まで使う為、根本の詰まり具合が装飾的特徴となる。

庄内加茂水族館の村上館長はこの庄内竿を古式に習って自製する。そして、巌頭に立って自製した庄内竿で黒鯛を釣り上げる。細身の竿は大物が釣れれば美しい円弧を描く。山の釣りも名手である。筆者はたびたび同行させていただいたが、熊よけの猟犬を先頭に沢から沢へ、後を追うのに苦労する。こうした釣道を極めた武人がまだ東北地方にいることは心強い。

二振りの庄内竿をいただき大切にしている。手元から穂先まで曲がり具合は日本刀の趣がある。「雑魚釣りあんにゃ」生涯竹一竿。